すごい気をつけてるのに失われがちな自分らしさの不思議/映画『湯を沸かすほどの熱い愛』

投稿日:2019-09-19

更新日:2023-10-30

カウンセリングは自分らしさ、つまり遺伝的に持っている本来の自分になっていくものと聞いたことがある。それだけ自分らしくいつづけるということは難しいということ。いろんなことがあって、自分らしさが見失われることは長い人生の中であるよね。

そんなことを頭で理解して、自分らしさを失わないように細心の注意を払っているつもりだった。なんてったって、自分らしさを見失う痛みを知っているもの。もうあんな経験しない。自分を見失わない。人生の敵は自己欺瞞だ!その罠にはまらないぞ。私は身をもって知ってるんだから。

と、思っても繰り返す不思議。10年くらいすると同じ過ちを繰り返すようになってるのかしら。しかし成長とともに、見失い方もいくらかマシになってきたようなところはあるな。ひどくなる手前で気付けたり。そういうときは、こわー!!これ危ないやつー!とか思う。今回もそんな感じ。全然気づかなかったけど、自分が病気になって少しゆっくり考える時間ができ、やることもないから自己分析でもいてたもんなら、およよ!!これは!!となった。

簡単に言うと、固定観念や常識的な枠組みに囚われて勝手に自分を不自由にしていた。なんでこんなところで多数派に溶け込もうと必死になってたんだと。てゆーか、もともと少数派の生き方の楽さや魅力を知り、自分もその路線で行くメリットを享受していたのに。私はいつからこんなに守りに入ったんだ!そんなことに気づいて軽く愕然とした。

それは、少数派で気軽にやってきた私が、いつしか多数派の人たちが構成するような団体とかコミュニティとか、そういった社会に溶け込んで、多数派でいることの安心感とか保証されてる感とか、そういったものを享受していたからだと思う。得るものあれば、同時に失うものあり。そんなことも気づかず、私は多数派の人たちの社会に溶け込む安心感と引き換えに自由や柔軟性を失っていた。つまんねぇな。なに真面目にやってんだ。もっとふざけよ。

というわけで、失っていた自分を取り戻そうと思う。今回たまたま病気になって気がついた。たまには病気になるもんだ。健康は尊いけど。失うものと得るもの、手放すものと与えられるもの。それらはニコイチだ。何を選ぶかは自分で決められる。病気になったら健康状態はなすがままで決められない。世の中には自分で決められないことがたくさんある。長い人生、ただ渡された手持ちのカードで自分で選択して勝負するしかない。そんなことを偉そうに友人に話したことがあった。あの時の自分をひっぱたいてやりたい。その友人は施設で暮らしている。

そんなわけで、今日は映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を見て色々思ったのでした。血縁のない家族というありかた、形にこだわらない自分らしい生き方、そして病気。色々全部乗せってくらい今の自分の刺さってオダギリジョーは超好きだったけど、映画がよかった。もっと早く観とけよ!と思ったけど、今このタイミングだからこそ、刺さるところもあるのでよしとする。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA